■池田晶子が「週刊新潮」コラムで「匿名」のカキコミは卑怯だ、と発

cogitoergosum2004-06-20

 コラムニストか哲学者か知らないが、最近よく見かけるモノ書きの一人に池田晶子がいる。埴谷雄高論でデビューした女性だが、最近は「週刊新潮」にもコラムを連載している売れっ子だ。そこで、今回の長崎事件について彼女がどう論じているのか知りたいと思って覗いてみた。しかし予想通りやはりダメだった。完全に新聞やテレビの情報操作と誘導尋問に乗せられて書いている。池田は、殺人事件そのものについてではなく、「2ちゃんねる」や「チャット」批判という切り口でこの問題を論じている。「匿名掲示板」のカキコミは、匿名と言う隠れ蓑に隠れてのカキコミで、無責任で「卑怯」だ、と。批判したければ、名前を公表してから堂々と批判しろ、と言うわけだ。ああ、なんという紋切り型!
 池田のこの批評(批判)は、チャットや掲示板批判としてももっとも常識的で安直なステレオタイプにはまりこんでいると言っていい。タイトルは「パソコンに責任はない」となっているが、内容は初歩的なパソコン批判に終始している。
 彼女は、自分はパソコンは使わないと、大見得を切っているが、いまどき、その種の言葉に何か深い意味付けをしようとすること自体が陳腐なのだということがわかっていないようだ。ワープロを使おうがパソコンを使おうが、あるいはまたペンや鉛筆で手書きしようが、そこにたいして変わりはない。あると思うのはロマン主義者の幻想である。かつては万年筆やエンピツですら新しい情報器具だったのであって、パソコンより万年筆が思想や哲学を表現する情報道具として根源的で本質的だということにはなるまい。そんなことにこだわりたければ、万年筆やエンピツもやめて、墨をすり毛筆を使って書いたらどうか。
 ネットの匿名掲示板が「卑怯」「下品」な文化の掃き溜めで、池田の書く「週刊新潮」のコラムそうでないという保証も論拠もどこにもない。単なる思いこみのアナクロニズムに過ぎない。たとえば、テレビのコメンテーターは、テレビ画面に顔をさらし、いかにも自分の意見を自己責任において述べているかのように発言しているが、実際は番組製作者の役付けに従って、ロボットのように口をパクパクさせているだけだという話は今や常識だろう。新聞も週刊誌も似たようなものだろう。自分だけは、個性的な発言をしているというのは錯覚であり、自己欺瞞であり、幻想である。それを知ってしまった現代人は、下品で卑怯で、いかがわしい、と百も承知の上であえて「ネット」や「匿名掲示板」に向かうのである。そこが最新情報今や誰もテレビや新聞や週刊誌のお上品で表面的な発言を信用しなくなったのである。いかがわしく卑怯な情報空間だからこそ人はそこに集まるのだ。そもそも匿名の情報が正確でないと誰が決めたのか。匿名だからこそ真実の情報が虚実入り乱れて飛び交うのだ。
 池田にはこの構造がまったく読めていない。
 現に、最近のテレビ、新聞、週刊誌の「新情報」の多くは、ネットからのパクリや受売りがほとんどではないか。「2ちゃんねる」が加害者の個人情報を晒したと批判する一方で、「2ちゃんねる」に公開された写真をちゃっかり拝借して掲載しているのが週刊誌である。
 いや、警察の捜査さえネットより遅れているというではないか。つまり警察官の聞きこみ情報より、ネットの匿名掲示板のカキコミの情報の方が早く、且つ正確なのである。
 
          (写真は加害少女の自宅?)