山崎行太郎が「長崎少女殺人事件」を読む・・・写真は加害者の自宅?

cogitoergosum2004-06-12

2004/06/08 (火) 長崎事件ー現場責任者(担任)が逃げてどうするのか。

 長崎事件のテーマは、ネット批判から家庭問題、あるいは学校当局の問題に移行しつつある。むろん、最終的にはこの少女個人の問題に帰着することは当然だが、その前に現場の責任者を徹底的に追及するべきだろう。ネット批判と言うような抽象的な一般論にすりかえることなく、まずは地道に現場責任、当事者責任を追及するのが筋である。
 事件直後、少女の母親は「娘は成績もよくこれまで順調に育ってきた。少し内向的なところがあったが何も問題はなかった」と発言したと報じられた。僕はこの発言は明らかに不自然でありすでに事件を予知していたかのような発言として受け取った。過剰に防衛的な発言だったからだ。
 報道を信じるならば、この母親は家庭でも職場でも「しっかりもの」だったらしいが、しかし娘がイジメられたりするとその同級生の家に怒鳴り込むようなこともあったらしい。おそらくこの少女は、本人も自覚できないままに母親への不満と怒りを鬱積させていたはずだ。この母親は、事件後の最初の娘との面会の席でも泣くばかりで一言も声をかけなかったようだ。気の毒だが問題は母親自身にあったように思えてならない。
 事件直後、校長が「明るいいい子だった。こんな事件を起こすとは想像もしていなかった」と言ったが、これも事件後の発言としてはまったく不謹慎である。校長も実はうすうすこの少女の一連の問題行動を知っていたはずだからだ。校長が事件後、事件の内容について「知らぬ存ぜぬ」で押し通そうとした姿勢にもそれは現れている。明らかに何かを隠そうとしている。
 ところで、少女の担任(30代の男性)が顔を見せないのも不自然だろう。この教師に責任があると言うつもりはないが、現場の管理者としてやるべきことがあるだろう。驚くべきことにこの教師はすべてを女性校長にまかせて残された児童の授業も放棄し、学校も欠勤しているとか。
 小五の時の担任教師(女性)が、このクラスは五年生の時に荒れ、生徒が担任教師に暴力を振るうほどの「学級崩壊」状態であったことを告白している。ちなみに少女はいつもカッターナイフを持ち歩き、事件の10日ぐらい前にも男の子を追い回したと言う。
 むろん、誰にも最終的な責任はない。すべては少女本人の責任だ。
 しかし事件は、学校と言う現場で起こったのである。
 現場責任者が逃げてどうするのか。
 普通の会社だったら引責辞任は不可避だろう。
 





2004/06/05 (土) 「シニフィアンのたわむれ」としての長崎事件。

 理由や原因や目的のわからない事件に出合うとわれわれはどうするか。衝撃を受け、動揺し、不安になる。いつまでもそういう状態を続けることはできないから、早く答えを見つけて落ち着こうとする。つまり、人は(大衆もマスメディアも……)、手っ取り早く手に入る古いステレオタイプの答えに飛びつき、これが原因であり、理由であり、目的だと解釈し、安心しようとする。
 ソシュールに始まる記号論によると、言語を含む記号(シーニュ)は「シニフィアン」(意味するもの)と「シニフィエ」(意味されるもの)から構成されている。わかりやすく言いかえれば、記号(人物や事件……)は、事件それ自体とその原因・理由から構成されている。
 原因・理由がわからない事件とは、「シニフィアンのたわむれ」(シニフィエがない!!)そのものと言っていい。
 少女は、殺人の理由としてチャットの中の「悪口」などが理由で友人に殺意を抱くようになり、それをカッターナイフを使った殺人ミステリー(テレビドラマ)をヒントにして実行してしまったと白状しているらしい。その告白を前提にして、精神分析医やカウンセラー、教育評論家などが、「チャットの世界は相手の生身の身体や顔の見えないバーチャルな世界だから……」という「すりきれたメタファー」を使った分析を繰り返している。まったくいつまでたっても目覚めないバカ学者の大行進である。
 そもそも、少女の告白、白状の中身に「嘘」や「抑圧」はないのか。
 夏目漱石は、殺人の理由や動機を正確に表現できたらその犯人に罪はない、と言っている。つまり、殺人の動機や理由は本人にもわからないはずなのだ。「世の中に簡単に片付くものはない」と言う漱石は、人間は、ただ「やってしまうのだ」と言う。理由や動機は後から都合よく捏造されるのである。
 フロイトは「抑圧」という概念でそれを説明している。少女は本当の動機や理由をおそらく知らない。心理的抑圧がかかり少女自身がそれを自覚できていない。そこで、「わかりやすい答え」でそれを代行している。
 要するにこの事件の真相・深層は、むろんあらゆる事件がそうなのだが、しばらく時間がたたないとわからない。「動機や理由がわからない」からこそ、誤解を恐れずに言えば「おもしろい!!」のである。わかってしまったら事件ではなくなってしまう。そうなったら大衆もマスメディアも振り向きもしないだろう。 





2004/06/03 (木) ネット批判で一件落着ですか。よかったね、校長先生!!

 「長崎喧嘩」という言葉を知っていますか。『葉隠』にある言葉ですが。上方や江戸の口先だけの喧嘩に対して、喧嘩となれば問答無用と一気に切り殺す喧嘩のことです。長崎で凶悪な少年犯罪が続発していますが、ふとこの言葉を思い出しました。
 さて、長崎女子児童刺殺事件から、すぐ、一日も経たないうちにネット(チャット)批判が飛び出してきました。わかりやすくて、とってもおいしい「答え」が見つかったと言うわけです。新聞もテレビも大喜びです。そりゃそうでしょう、メディとしての機能と役割をすっかりネットに奪われて、いまや衰退の一途にあるテレビや新聞という大手メディアしては、起死回生のチャンスですから。
 例によって、新聞やテレビ画面に登場して得々と見当違いの分析と解説を加えているバカなカウンセラーや教育評論家、ジャーナリストたちがいますが、学習能力が著しく欠如しています。台本どおりにワンパターンのネット批判を展開していますが、そんな話にうなづくのはテレビ呆けした老人と主婦だけでしょう。誰も本気でテレビなんか見ていないって。新聞ですか。新聞も当り障りのないことしか書かないでしょう。その意味でネット元凶論はもっとも安易なネタであり回答なのです。昔、マンガ批判、テレビ俗悪番組批判とかありましたが、あれと同じです。悪書追放運動なんてありましたね。悪書処分用の白い箱とか。
 そんなことを言い出せばきりがありませんが、昔は「小説を読むな」「小説なんか読むと不良になる」なんて言われた時代もあったそうです。小説も「力」をもっていたということです。
 ところで、この「長崎喧嘩」問題の本質はどこにあるのでしょう。
 ネット? そんなところにはないでしょう。
 ではどこにあるのか。
 しかし、あまりあせらずに、しばらくは先生方の講釈を聞かせてもらいましょう。
 高見の見物でもしましょう。一週間ぐらいは熱いネット批判が続くでしょうから。そういう時は、何を言っても無駄です。